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三百字の遺言-献眼へのメッセージU- 平成27年2月発行

平成27年2月に発行した「三百字の遺言-献眼へのメッセージU-」からの抜粋です。

  • 1〜5
  • 6〜10
  • 11〜15
  • 16〜20
  • 21〜25
  • 26〜30
  • 31〜35
  • 36〜40
  • 41〜45
  • 46〜50
  • 51〜55
  • 56〜60

  • 三百字の遺言-献眼へのメッセージU-音訳(YouTube) 平成28年7月作成

    平成27年2月に発行した「三百字の遺言-献眼へのメッセージU-」を音訳したものをYouTubeにて公開しています。

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    光のリレー   昭和59年3月に義兄から頼まれ、献眼の意味、方法も知らずに、自分が死んだ後の事だから痛くもないだろうと夫婦で献眼に同意した。歳月がたち献眼登録をしたことも忘れていた時、縁あってライオンズクラブに入会しアイバンクに再会して、献眼の崇高な精神を理解するようになった。その後、アイバンクにお願いして献眼登録カードを再発行してもらい、家族にわかるようにと写真と共に仏壇の引き出しにしまった。しかし、これだけでは不十分と思い、運転免許証・健康保険証の裏面にも意思表示した。これで準備はととのった、あとは心しずかに天命を待つだけである。ライオンズマンとして献眼は究極の奉仕と思っている。 高岡市の男性より。

    私の永遠の奉仕   私がライオンズクラブに入会して33年、その頃となみセントラルライオンズクラブでは一番若いメンバーでした。そして、20年前に献眼登録しました。当時は、自分が献眼登録することの重さを深く考えておりませんでした。家族が拒否すれば献眼しなくても良いのだからと考えていました。2014年にゾーンチェアパーソンを務め、ガバナーの代理で献眼者へ感謝状を贈呈した時にふと考えました。こんな安易な考え方ではいけない、遺族の方の決意と献眼された方への感謝は尊いものであります。自分の考えの情けなさを恥ずかしく思いました。私は献眼します。眼の見えない人に今まで手で触って耳で聞くことしかできなかったのが、私たちが味わったのと同じ素晴らしい世界を見ていただきたい、それが私の永遠の奉仕かと思います。自分の勇気と家族の理解が必要と思います。家族にも献眼登録してあることを伝えました。 砺波市の男性より。 注釈 富山県では、アイバンク活動を支えてくださっているライオンズクラブ様からご献眼者様ご葬儀の際に感謝状が伝達されます。

    私の決意   生来近視の上70歳を過ぎてから白内障の手術を両眼とも受けました。そのため献眼には適さないとの思い込みから、アイバンクによる献眼、献腎キャンペーンには内心無縁のものと装ってきた。しかし、白内障とは無関係で裸眼で物が見える限り献眼可能であることを知り、これまでの自分の曖昧さを恥じ、認識を新たにしました。手術後、片目を眼帯したのみでその不自由さを痛感し、従来至極当然の如く振る舞ってきた自分を十分に反省させられるものがありました。光を失った人達の「求不得苦」の苦悩は計り知れず、献眼がもたらす意義は限りなく大きいと言えます。一筋の光明は、新しいライフステージの再出発と共に生きる喜びを与えるものであり、献眼の崇高な志を、私自身強く自覚していきたいと願っています。
そしてその志を家族に伝え遺していく決意でいます。 富山市の男性より。

    事業に対する感動   アイバンクとの出会いは、某先輩から、評議員なってくれ、と言われました。何にも知らない私でいいのかと思いましたが、とりあえず、わかりましたと、返事はしたものの、最初は何をすればいいのか?不安でいっぱいでした。最初アイバンクの一回目の会合に行ったときには、周りが会長経験者などの、立派な先輩ばかりで小さくなっていましたが、ある日、ゾーンチェアパーソンをしておられる先輩から、献眼をされたご遺族に感謝状を持って伺ったところ、泣いて喜んでいただけたと聞きました。こんなに一般の方に喜んでいただける事業は続けるべきだという言葉を聴き、感銘を受け私自身事業を続けられれば良いと思いました。 高岡市の男性より。

    地域の皆様にPR   富山県アイバンク様の活動のお話を聞かせて頂く機会をいただきました。私自身献眼に対しては少々抵抗がございますが、何らかの形でご協力出来ないかと考えるきっかけとなりました。パンフレットも見させていただきながら実際の活動内容もお話しいただきました。今の私に出来ることは、PR活動のお手伝いか募金活動でしょうか。もっと広く地域の皆様にこの活動をPRし知っていただき、私のような抵抗感を持つ人に理解してもらうことが大切かと思います。 富山市の男性より。

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    なんとなく登録したけど   私はライオンズクラブに入会した際にアイバンクの活動を知り、なんとなく登録した者です。当初なんら思い入れもなく、しかし財布の中にはいつもドナーカードが鎮座しており、財布を使うたびに「そうだ、私ドナーになったんだ」とボーっとした感覚が脳内にあったのを覚えています。それから後、角膜損傷で治療中の友人と会っていた時でした。「調子どう?」、友人「わからない」と元気に返答するも不安な気持ちは隠しきれない様子。しかし慰めることしか出来ない自分を残念に思っていた気持ちはそこにはありませんでした。「あっドナーになるってこういう事か…。」自分も役に立てる“ちょっと誇らしげな気持ち”にかわっていた自分に気づきました。 富山市の女性より。

    夫婦の会話U   数年前四百四病の網を潜ることが出来なかった。脳幹梗塞の予後、妻は「遺言状を書くように」迫った。「地位や名誉や財産も無いからこそ、遺族の指針が必要です」と。所定の用紙に、「献眼登録済み。死後、友人のT君に連絡する事。」と下書きを見せたところ、「優先順位一番が献眼とは!」と激しく憤る。数日、冷戦の日々が続く。二番三番の家族への思いやりと、一番と入れ替える。遺言状は糊付けせずに引き出しの奥に眠っている。人生相談で、よくお嫁さんが「私と義母さんとどっちが大切」という言葉が蘇る。「ライオンズと私とどっちが大事?」と問いかけられた日でもあった。遺言通り実行されたら、献眼を受けた人の目で彼女を括目したい。 高岡市の男性より。

    人生最後の奉仕   献眼啓蒙活動に長年携わって来た私には、右眼球癆、左ぶどう膜炎、白内障、緑内障の診断で出生時より視力右眼ゼロ、左眼0.04の障害を持つ娘がいる。娘は盲学校を終了して18歳から福井県の重度視覚障害者施設「光道園」に今日までお世話になっている。視覚障害者については格別の理解者と自負しているので献眼運動にたいしても協力を惜しむことなく尽力してきた一人と自負しているが、残念なことに13年前に母親の死去に際して献眼の義務を果たしていないのである。肉親の死去に際しては悲しみに打たれ忘却したのは当然のことと慰めてくれる人もあるが、自分としては決して許されることではないと痛感しているのです。80歳半ばを過ぎた私は、近い将来には必ずこの悲願とも言える献眼を実現してもらいたいのです。娘の視力は角膜移植でも視力の回復には至らないのですが、死後の角膜移植により明るい人生を取り戻すことができる人たちに使っていただけるならば、最高の幸せと思っています。妻や子供たちには、この遺言を伝え、ためらわずに、忘れずに献眼してくれるよう、重ねて遺言しておくのであります。富山市の男性より。

    見る・見続ける   私の父は、5年前に亡くなり、献眼しました。ざっくりとした性格の父のことだから、「まだ使えるし、使いたい人がいるのなら」くらいの軽い気持ちだったと思います。私は、その父の営んでいたサイン業を継ぎ2代目です。私たちの商売は 見られる ものを作ること。そのためにはいっぱいのものを 見 なければなりません。父のいろんなものをいっぱい 見た 眼が、今もどこかの誰かのところで、亡き父のような軽やかな気持ちで、いろんなものを 見続けている と思うと、なんだか晴れやかな気持ちになります。私の眼も、誰かが引き継いで、いろんなものを 見て いってくれたらうれしいなと思っています。 入善町の男性より。

    孫たちへ   爺・婆たちの献眼についてお願いしておこうと思います。まず、家の広間の鴨居の上に、献眼登録証の額が掲げてあるから見てほしい。「社団法人富山県善意銀行」発行で、爺の証書番号は第9175号、婆は第9176号です。角膜提供については、曾祖母婆ちゃんと叔母さんの例があるから、親族には異存がないと思います。善意銀行での登録ですが、程なくアイバンクに引き継がれました。登録の日から四分の一世紀が経った今、爺たちは一番で古い献眼登録証を所持しているようで感慨に耽る思いです。なお、献眼登録のきっかけは、爺が富山神通ライオンズクラブに所属していて、役員として率先し登録に参加したことでした。死の時が来たら、躊躇なくアイバンクへ連絡して下さい。 富山市の男性より。 注釈 富山県アイバンク設立前は、善意銀行様が献眼登録業務をおこなってくださっていました。

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    献眼へのメッセージ   富山県アイバンク設立当初、地区PR委員をしていた関係で、少し関わりを持ち、「献眼」に対する意識が芽生えました。そしてその後、献眼登録も家族全員の登録を済ませました。(無断で)初めてその献眼のチャンスに遭遇したのは平成10年2月、母が亡くなった時でした。4か月余りの入院後、明け方静かに息を引き取りましたが、お世話になった女性医師に挨拶かたがた、献眼を申し出ました。しかしながら、詳細な説明もないまま不適だという事でした。その3年余り後、父があとを追うように容体が急変して、救急車で富山大学附属病院に運ばれましたが帰らぬ人となりました。目薬を離さず愛用していた位、完全ではない眼だったのでダメもとで医師に申し出てみました。すると今度は片方だけですが大丈夫ですとの事でした。葬儀の折には、故井村東司三元理事長に弔辞を読んで頂きました。ご多忙な方が、しかも短い時間の中でどうして情報を集められたのか不思議なくらい素晴らしい弔辞でした。参列者からもいい事をされましたね、とお褒めの言葉を頂戴いたしました。今頃はどこかで、愚息の監視をしている事だと思います。さて、その愚息と云えば、生憎と30年余り前に不摂生が祟り、B型肝炎を発症してしまい、献血も献眼も出来ない半人前の人間になってしまいました。斯くなる上は、富山県アイバンクの広報委員会PR部長として、献眼の崇高な理念を継承すべく、微力を尽くしたいと思うこの頃です。 高岡市の男性より。

    立山連邦を見て感動を   献眼というと、まず井村東司三元理事長のことを想いだします。同じ医療人として、病に冒された先生を、最期は病院で私がお世話できたのは幸運でした。戦友がは殆ど死亡した南方で戦ったことやマラリア熱が流行したことなどを、ユーモアを交えて淡々と話されたのが印象的でした。1人は男性に、1人は女性に献眼したいと希望され、その通りになり、先生は今も我々を見つめておられます。人は死を避けられませんが、角膜は百歳を超えても移植できると言われています。私の角膜で、光を取り戻すことができる人がいたら素晴らしいことです。老若男女は問いません。立山連峰を見て感動していただければ、と思っています。 高岡市の男性より。

    後に生きる人が   私は道路案内看板の字がよく見えなくて、免許書き換えに際し、更新ができないのではと思い、眼科に相談したところ、白内障と言われ、両眼の手術をすることを決断しました。初めての事でもあり、失明するのではと、とても不安でしたが、先生にお任せして手術をし、よく見えるようになり、嬉しくてたまりませんでした。このくらいでも嬉しいのですから、見えない人が見えるようになる感動は想像以上の事と思います。私は色々なボランティアをさせていただく機会がありますが、最後に人のお役に立てるのは献眼しか無いのではと思っております。色々な病を持っておる私です。献血、臓器提供等はできませんが、献眼だけは出来る体です。今も親戚の葬儀を終えたばかりですが、死するとは、もう抜け殻です。仏様です。体そのものは、火葬でなくなってしまいます。自分の角膜で、後に生きる人が、素晴らしい人生を送ることができるならば、これ以上のボランティアはないのではと思う今日この頃です。 砺波市の男性より。

    生きたあかし   灰になってしまう私共の眼が、再び光を灯して甦る。曾てこんなことは考えられもしなかった。今も沢山の方々がその角膜を待っておられます。私の眼もそのままお役に立てばこんなうれしいことはありません。私の92才の人生の中で、何時もお役に立ってくれたこの眼?ちゅうちょなく先人のお後に従おうと決めています。私が生きたこの世での“あかし”の眼が再び輝く日を思い、私の存在した、たしかな力としてお役に立ってくれることを? 富山市の女性より。

    自分にできること   私はまだ献眼登録をしていません。視力が良くないので普段はコンタクトレンズを使用しています。しかし、コンタクトレンズやメガネがないと恐らく普段の生活では、ぼんやりとしか見えないことに不安を感じ、外出することもためらうかもしれません。私の祖母も、糖尿病の影響から視力がほとんど見えなくなっていましたが、周りの心配をよそに積極的に外に出ていました。子供のころ、ある時祖母に聞いたことがあります。「ほとんど見えないのに、何で外を歩けるの?こわくないの?」祖母の答えは「暗いと不安だけど、明るいときは光を頼りに歩けるし、声や音が聞こえるから問題ないよ。でも、生きているうちにはもう一度はっきり見えたら・・・。」でした。とても明るく笑顔で答えた祖母にたくましさを感じ、私は何もしてあげることができない自分にふがいなさを感じたものでした。今私ができることは献眼登録をすること、そしていつの日にか祖母のような方に自分の目で見える喜びを感じてもらいたいと思います。 富山市の男性より。

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    ピンクの意思表示   地元富山の北日本放送が全国13番目にラジオで開局した1952年に生まれた虚弱体質の私の好きな色は、永らく、凛々しさを表す紺・ブルー系であった。むしろ、派手な赤や紅色を避けてきた人生であった気がする。一昨年、曲がりなりにも還暦を迎えることになった私は、同期の友人二人とお世話になった方々をお迎えして、「だんご三兄弟 新たな旅立ちの会」を催したが、その席上、子供からプレゼントされたベストが桜色のピンクであった。以来、愛用する社用車もピンク色のダイハツタント、携帯電話も、デジカメも…。感情を静め、心の動きを安定させ、優しさを表現するピンク色は、現在の私のトレードマーク色であり、献眼登録の推進活動の更なる拡張を目指す私の意思表示色にもなっている。 富山市の男性より。

    母からの最高の贈り物   常々、健康で丈夫に産んでくれた母親に大変感謝しています。妊娠中から健康な子を産むために考え得るありとあらゆることをしていたようです。そのお蔭で、数えで60歳になる今日まで殆どお医者さんの厄介になったことがありません。冗談交じりに、もう少し頭がよく産んでくれたらもっと良かったのにと憎まれ口を叩いたりしています。体が不自由なことは大変なこと。普段何気なく生活していますが、自身がけがなどをしたら、健常者である有難味を痛感します。私が死んだら、使える臓器は全て提供して皆さんの役に立ててもらいたいと思っています。特に「百聞不如一見」という諺があるように、目からの情報はほかの器官からのそれの数倍から数百倍あると思います。然も瞬時にして情報が飛び込んで来ます。私は、金銭的財産を遺すことは出来ませんが、母から貰った丈夫な体を活かしてもらえれば幸いです。 射水市の男性より。

    母に教えられて   私がライオンズクラブに入会させていただいた昭和61年にはまだ富山県アイバンクという組織はありませんでしたが、平成3年に結成されて献眼登録者の募集があり、私もその時に登録させていただきました。その後、家族への登録の募集がありましたので、妻にも理解を得て登録してもらいました。しかし、齢を重ねた母には登録してほしいとはなかなか言い出せません。妻の「お母さんにならきっとわかってもらえると思うよ。」の一言のおかげでようやく母に依頼することができました。その時の「私のような年寄りの目が亡くなった後も人様のお役にたてるなら、こちらの方からお願いしたいわ。」という母の言葉に教えられた思いでした。2年前、94歳の天寿を全うして亡くなった母の眼は無事お二人の方に移植されました。今もその瞳がお二人の眼となっていきいきと輝いているかと思うと大変嬉しく、母には心の中で手を合わせ感謝するばかりです。いつか自分にもその時が来たなら、母のように目の不自由な方に希望の光が届けられることを願い、献眼することを家族への遺言とします。 砺波市の男性より。

    未来への光明   日頃は神仏の教えを崇め、先祖の供養に香を焚いて死後の世界を生きる極楽往生が語られるとき、その人が、生前にどのような生き方をしたかによって、善をなした者は天国に生まれ変わり、悪事を働いたものは地獄に堕ちるとする「因果応報(いんがおうほう)」の譬えの、未知なる極楽浄土への説法から、世の光の不自由を強いられる人々への救済支援は、ライオンズクラブの掲げる、他人の尽くす奉仕の誠心を「ウィ・サーブ」と心得ながらも、なかなか世の騎士とは成れないでいることに反省しきりであり、未来に及ぶ自分の遺言までに至らない日々である。献眼とは、仏教で云うお布施ともとれて、決して疎まれるものではないに違いないと思うが、現世に不幸を強いられた人々への、健常な未来への光明が取り戻せるように、温かい手差しの啓蒙が一層図られ、さらには失明予防に最善の医学の発達を期待するところである。 上市町の男性より。

    生かして戴いたお礼   私は少しの病は持っておりますが、普段の私生活には支障はありません。今までに仕事も私生活でも健康で大過なく過ごせた事に感謝致しております。アイバンクの情報で眼の不自由な方がいると聞いて献眼登録しております。周りが見えない人生は私にはありませんでした。周りの見える人生を送って戴きたい一助なればとの思いで、終わりに周りが見える方に役立つことができれば幸いです。「あの男も人生の終わりに社会に一つお返しをしていったな」でありたい。 富山市の男性より。

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    この眼で未来を   「本が読みやすくなるから」の言葉にひかれて、白内障の手術をしたのは7年前。徐々に視力がおちていっても、その状態に慣れてしまっていたのだろう。手術後、眼帯をはずされて驚いた。世の中の色彩がこんなにも鮮やかで美しいものだったのか。目の前の緑の生命がきらめいている。私の子供時代は、戦争の歳月の中であった。B29による大空襲の夜、富山市内の炎上する中で幸運にも生命を拾った。人間の恐ろしさ、残酷な地獄を見た。平和な時代になって、雄大な大自然、人類の産んだ歴史や文化の素晴らしさに触れ、その美を堪能することができた。なによりも家族や友人たちの笑顔をみつめ、思いやりの心につつまれ、年齢をかさねることができて今日がある。大分古びた両眼ではあるが、私の人生を豊かにしてくれた大切なものである。もしお役にたつなら、夢をもって前向きに生きようとする若者のために使っていただければ、本当に嬉しくありがたい。そして私が見ることのできない未来を楽しみに。 富山市の女性より。

    小さな贈り物   私の目、死はいつかは、必ずやってくる。その時、アイバンクに登録していたおかげで私の目はどこかのだれかの目となってこの世の中を見て行く事ができる。そう思うだけでわくわくする。だれかの役に立つ事ができると思うと、うれしくなる。なかなか、人の役に立つ事をするということは簡単ではない。私の目が喜んでもらえるのならこんな幸せな事はない。 高岡市の女性より。

    私の意思   今年8月、自分の不注意で階段に躓き転倒し脇腹を強打した。診断の結果、肋骨が2か所骨折していた。咳払いやくしゃみをすると強烈な痛みに襲われ、ベッドの寝起きが出来なくなった。車のドアーの開け閉めにも不自由した。それまで気に留めることなく行っていたことに細心の注意を払わなければならなくなった。もし何かの事故で視力を失ったとしたら、こんな次元の話ではないことはよく理解できる。幸い私は両眼とも視力1.2とよく見える。キャディさんに代わってゴルフボールの行方を追うことが出来ると自負している。私がこれまで十分に使った両眼を私の死後活用していただけるのならこれに勝る幸せはない。家族に私の意思をしっかり伝えておきたい。 富山市の男性より。

    喜んでもらえるなら   中学の頃から近視めがねをかけ始め、乱視、遠近両用と70歳になった今日まで、不自由を感じながらも相当数のめがねを買い求めた。
 平成14年10月に家内の理解を得てライオンズクラブ経由の献腎、献眼登録をした。しかしその三年後ゴルフプレー中、左眼が急に見えない症状になり、真生会富山病院眼科の先生による黄斑膜の水分分泌除去、加えて右眼白内障手術のお蔭で不具合がありますが、日常の生活に差し支えることなく公私共に忙しく立ち働かせて頂いております。献眼が可能か否か確認はしておりませんが、光の有難さは身をもって感じ、人には強く言えます。現在携わっています各種関係団体や多くの人達に「ウイサーブ」の精神でお役に立ちたいと思います。 高岡市の男性より。

    視力回復のバトンをつなぐ   私の片方の目の角膜には、小さな傷があります。小学校に上がる前、母親の実家で従弟たちと竹とんぼを作っているとき、小刀で刺した小さな傷です。正しい使い方も知らないままに起こった突然の事故に、母親は狼狽しながらも自転車の後ろに私を乗せ、懸命に街の眼科医へ連れて行ってくれました。それから数か月、毎日のように医者通いをした記憶を思い起こします。幸い、傷は瞳をわずかにそれていたため、完治後の視力に影響がありませんでした。懸命に治療を頂いたお医者さんと母親には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。たくさんの方々の力を借りて頂いた視力、私の命が途絶えた時には今度は私が視力回復へのリレーのバトンを渡したいと思っています。万一、傷ついた角膜が使えないとしても、もう一方の目の角膜は健康です。視力回復を待つ、一人でも多くの方のお役にたてたらと思っています。 富山市の男性より。

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    先導者のあなたへ   人生の扉を開けたその瞬間からあなたのお蔭で「光の道」、「影の道」さまざまな道の先導者としてあなたと私は二人三脚で人生という道を歩んできました。そして人生の扉を閉めた後、あなたはどこかの誰かのために、全く違う環境で、どんなものを見て、どう感じ取るのか、新しいパートナーの人生の先導者としてまた大いに活躍してくれることを望みます。いつの日か「アイバンク登録」が当たり前の行為となるように切に願っています。ほんの小さな光のプレゼントを贈ります。 高岡市の女性より。

    孫との会話   「お世話になったLIONS CLUBを去るに当たって感謝の気持ちを300字の遺言として残すことにした」と夕食の会話の切り出しに私が述べた。妻は「遺言なんて縁起でもないことを言わないで」と顔を曇らせ、孫娘は「献眼をするとき、おじいちゃんの体を傷つけるのでしょう、私いやだわ」と言った。「仏教の教えでは、人間は死んだら、魂は体から離れて千の風に乗って空を飛んでいく、遺体は今まで身に着けていた古着のようなものだ。だから、残った着物は必要な人に利用してもらえばいいんじゃないか」と私が言った。すかさず、孫息子は「それって人間リサイクルだね」と言った。この一言で、穏やかな雰囲気に戻り食事を続けることができた。 高岡市の男性より。

    「最後の奉仕は…」   常々「生涯最後の奉仕は献眼だ」と仰っていた、私の尊敬するライオンズクラブの大先輩が昨年献眼されました。アイバンクに関しては誰よりも愛情を注がれていた方だったと懐かしく思い出します。私の少年時代に、父親や母親がメガネを鼻に載せて新聞などを読んでいました。なんであんなメガネが必要なのかと考えていた時期がありました。自分は勉強せずに授業中は遠くの港に出入りする船をジーっと見ていたせいか、目が素晴らしく良く育ちました。
 友人でメガネを掛けている子を見ると、勉強ばかりして居たのだろうと思い込み、当時は遺伝なんて考えたことがなかったものですから。あれから60数年たちましたら、自分が鼻眼鏡をし、「メガネはどこにある?」と探したり、各部屋に一個ずつ置いてみたり両親と同じことの繰り返し。大先輩のように「最後の奉仕は…」と公言できるようになりたいものです。 高岡市の男性より。

    一人でも多くの方に光を   昭和56年3月27日付、富山医薬大窪田靖夫先生直筆の手紙と献眼登録証が私の手許にあります。私は当時40歳でした。生後10か月でけがのため右目失明しましたが、左目は74歳の今も1.0の視力があり、何の障害もありません。その事情を書き、左目だけでも献眼可能ですか?と出した私の問いに、先生はOKの返事をくださいました。今私は点訳ボランティアをして、点字文庫から送られてくる本の点訳をしたり、ガイドヘルプ等、多くの出会いに感謝しながら視覚障害者のお手伝いをさせていただいています。アイバンクの活動がもっと広がりますようにとせつに祈ります。 射水市の女性より。

    目に見える世界へ   人生は、喜怒哀楽と言われる。嬉しいにつけ、腹立ちにつけ、悲しいにつけ、楽しいにつけ、有難い事に、私は今日まで、健康な眼を通して感じ取ってきたのが大部分であったと思っています。心の曇ったときには、美しい自然や、人が精魂込められた作品を見させてもらうことにより感動し、癒され、元気付けられて来ました。眼の不自由な方は、健常者以上の心眼により、しっかりと感情を受け取っていられると思いますが、目に見える感覚によって、更にすばらしい世界へ入ることが出来ると思います。私の眼がこの人たちの為に役立つならば、私の人生は更にすばらしさが倍加すると確信しているところです。 黒部市の男性より。

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    片目生活五十年   今から50年前、東京オリンピック開催の年、昭和39年9月、ある職場で勤務中に大怪我をして視神経切断により右目を失明しました。私の目は外見的には見えるように思われますが全く視力は無く、右の目には物の映像は映ってはいるそうですがその映像を脳まで送る道が切れているそうです。他人からいくら良い角膜を頂いても見えるようにはならず、私の角膜は50年前から使われておりませんが、献眼出来るそうです。ライオンズクラブに入会以来献眼登録をしておりますが、私の家族にもそろそろ献眼の意思を伝える時機が来たと考えるようになりました。「虎は死んだら革残す。」私は人生最後のご奉仕に光を残します。 黒部市の男性より。

    もっと知り、理解を   「三百字の遺言」の発行の主旨を拝見させて頂きました。そこには献眼に対する想い、喜び、希望、願い、様々な事を感じました。私はこの活動を理解しておらず、献眼という言葉でさえ理解していません。身内に目の不自由な者でもいなければなかなか考えることの無いことです。しかし、今回お話を聞かせて頂きいろんな感情が湧きました。簡単には出来ないことかもしれませんが私ももっと知り、理解したうえで考えたいと思いました。 入善町の男性より。

    せめてもの気持ち   中高の時の大の仲良しのAさんに女児が産まれ「とも子」と名付けたと聞いてびっくりしました。私も「知子」ですから。そのともちゃんは、生まれつきの弱視でした。県立盲学校に通い、大人になると完全に見えなくなると言われていました。明るく振る舞うともちゃんを見ていると、悲しく不憫でした。私は漆黒の闇は大の苦手、とても怖ろしく息が詰まりパニック寸前になります。「目と耳と口、その一つだけを助けよう。」を言われれば、すかさず私は「目を助けてください。」を言うでしょう。そんな私の心中をともちゃんに言うことはとてもできません。平成6年に献眼預託登録、平成14年に臓器提供意思表示カードに署名いたしました。せめてもの私の気持ちでした。 富山市の女性より。

    移植で再び光りを…   昨日まで明るく見えていた目、世の中が映っていた目が突然光を失ったら…。明るい場所から暗い場所に入っただけでも戸惑い、不安で、手探りの状態になって不安で一杯になってしまいます。世の中に、角膜移植を望んでいる人、提供してもいいと思い、ドナーとして登録しておられる方、そして、それぞれを橋渡しの、アイバンク(公益法人)があることを私は無知にも7年前にようやく知りました。それまで目のことを心配する環境になかったのか、深く考えたことがありませんでした。ライオンズクラブに入会して、アイバンクの奉仕活動に出会い、少々おこがましい事ですが、もっともっと世の中全体にお願いし、広めてゆくことができることだとおもうようになりました。偉大な先人の方々の努力も、私自身ようやく真剣に考えさせられるようになったのは、自分も白内障と云う病気になり、眼に自信が持てなくなったからでした。光のない世界、見えない世界、本当に辛いことです。移植で再び光りを…。単純なこと、当たり前のこと、人間の豊かな人生に欠かせない条件と信じ、アイバンクが求めるドナー登録への啓蒙を、進んで働きかけたい一人になりました。 上市町の女性より。

    ずっとみんなを見ていたい   父と母の子として生まれて52年余り。山のような父、海のような母にずっと見つめ続けられ、最愛の娘2人の親として、見つめ守ってくることが出来て、こんな当たり前でありながら、奇跡のような幸せな毎日を過ごしてきました。そして娘たちにも、父となった私を見つめられて26年がたちました。もし、私が見つめることが出来なかったら、見つめられる事がなかったら……。見つめることが当たり前に出来てきた私には、想像もつかない辛さや、悔しさが存在するのだと思います。その時が来て旅立つとき、離れてしまっても家族の絆は最愛の人を見つめ続けることが出来るでしょう。今までの幸せをいっぱい見つめてきた私の瞳が、どこかで誰かの新しいこれからの幸せを見つめることが出来るのなら……。ずっと、誰かの幸せを見ていたい。そしてずっとみんなを見ていけるでしょう。 氷見市の男性より。

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    遺言、最終の奉仕を   過去、私の周りから3人の献眼者がありました。葬儀の際、どのお寺さんからもその都度「いいことをされましたね」との労いの言葉がありました。「三途の川を渡れないのではないか」との疑念を打ち消す言葉でもありました。富山県アイバンクの端役を担って10数年、数多くの葬儀にお参りさせていただき、そのたびに感謝のお言葉を述べてきました。その自分が「献眼」しなくてはそれこそ地獄に導かれるというものでしょう。私の居間に、私と妻の「献眼登録証」を見えるように置いてあるので、その際には躊躇なく献眼されることと確信しています。 南砺市の男性より。

    献血から献眼へ   昭和38年大学1年生の時、教室に乗り込んで来た体育会系の強面の面々に連れ出され、並んだ先に採血車があった。列から抜け出す勇気もなく順番が来た。終わってみると初めて人の役に立つ事が出来たと、気分は高揚し献血への不安も消えた。当時輸血の98%は売血に頼り、売血で生計を立てる者まで現れ社会問題化、高校生、大学生を中心に売(買)血追放運動が始まっていた。ならば、全身の血液を献血しようと回数を重ねる内に、自分の内部に奉仕への心が育っていた。10数年後ライオンズクラブの例会で、臓器提供やアイバンクカードが配布された時には、進んで登録する自分が居た。私の身体の一部が、他人の中で再度活躍するとは、愉快なことだ。 富山市の男性より。

    献眼を決意するまで   ある日、1首の短歌に出会って驚きました。 譲り得る臓器もちたるわがからだ青葉のもとにいまだわがもの 玉井清弘  臓器移植をし得る身体を持ちつつ、今は青葉のもとに居て誰のものでもない自分の生を生きている、しかし死後の自らの臓器が他の人に移されて、各々の臓器の機能が維持してゆくかもしれない、そのことへの畏れが詠まれているのです。夫から献眼の意志を問われた時、私はこの短歌を思いました。眼を取り出して、他人へ移植するということを受け入れられませんでしたが、後日双眼の焦点が合わなくなり失明の恐怖を味わいました。幸い大事に至りませんでしたが、この時初めて献眼の意義に気づかされたのです。  あの世から見ている壁の鳩時計わたしが何処にも居ない明るさ 高松光代  人としてあるべき死を遂げて、あの世からこの世を見ていたいという思いは考えてみれば臓器を譲ったとしても叶えられることです。などと思い惑いつつ献眼を登録するに至りました。誰かに私の目が役立つなら生きて来た甲斐もありましょう。  ふたたびはこの世にあれじ生き尽くし亡きのち光の粒子となりて 畠山満喜子  富山市の女性より。

    最後の「We Serve」   クラブに入会して、もう10数年が過ぎた。当初、モットーが「We Serve」である事は解かったが、どうもピンとこない。公園のごみ拾いや、カーブミラー磨き、小川の不法投棄ごみの回収などの現在も継続して、それなりに地域の方々に喜ばれてはいるが、年に何回もできるわけでもなく、また、場所が限られている。そんな中で、四献活動と云う最もそれらしい「We Serve」がある事を知り、直ぐに飛びついた。20代の半ばで中断していた献血を復活させ、献眼の登録もした。臓器提供意思カードに全部「○」をつけて携帯した。骨髄ドナーだけは、ちょっと怖くて迷っているうちに、登録年齢制限が過ぎてしまった。今では、献血も「ダメ」を出されてしまった。将来、自分が死んだときに、こんな不養生な体の臓器が役に立つのであろうかと思いつつ、目を大事にし、体の健康を保つように心がけたい。それが最後の「We Serve」に繋がるのなら。 射水市の男性より。 注釈 四献活動とは、献眼、献腎(臓器提供)、献血、骨髄提供のことです。

    50年後の私   生を受けてからかれこれ半世紀あまりが過ぎた。戦後の成長期を経て、バブルの崩壊、パソコンを始めとする家電製品の発達による生活環境の変化は、凄まじいものである。きっと、あと50年先にはもっと変わっていることだろう。しかしその時は、ほぼ間違いなく私はこの世に存在しない。その世界を見ることはできない。でも、もしこの目が誰かの体で生き続けることが出来たとすれば、その人と共に未来を見ることができるはずだ。素晴らしい平和な世界であることを祈って、この目を献眼いたします。 富山市の男性より。

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    勇気を出して献眼登録   平成25年の春、アイバンクの理事である金井澄子先生から、アイバンクに協力するようにとのお話がありました「死後、角膜を提供すること」くらいしか知識のない私がお役に立てるだろうかと不安でしたが、理事会で何度かお話を伺っているうちに、献眼者が増えることの大切さが理解できてきました。理事になって1年半過ぎた今、私は勇気を出して実母の命日に「献眼登録申込書」をアイバンクに送りました。家族や妹弟にも私の遺言として意思を伝え理解を得ています。そして、先日、アイバンクカードが自宅に届きました。しかし、地域内で話題提供をしてもあまり関心がないのが現状です。今後は、広く県民の方々にいろんな機会を通じて普及啓発していくことの必要性を感じています。 富山市の女性より。

    人生50年目の遺言   「人生50年、下天のうちを比ぶれば、…」世が世なら、自分も人生の終焉を迎える年になった。これまでの自分を改めて振り返ってみると、家族、仕事、結婚、様々な岐路があり、知人紹介でライオンズクラブに入会し早10年、献眼登録は、そんな入会2年目に何の迷いもなくサインした。運転免許証の裏には臓器提供にもサインをし、何かあれば役に立つものは全て提供しようと心に決め、家族にも伝えてある。この先どの位、生かされているかわからないが、色々な方に助けてもらい又迷惑を掛けながら今日まで来られた自分が最後位、人に喜ばれ人生を終えるのも、かっこいいかなと思う。 滑川市の男性より。

    献眼で想うこと   自分は今まで幾つかの病気を患った事はあるが、眼科に行く事は仕事上現役時代には鉄粉が眼の黒たまに入ったりして何度かあったが、考えてみれば眼は身体の中でも重要な役割を果たしている部分である。世の中に光を求めている人がたくさんおられると思うので少しでも役立てばと、献眼登録をしてやりがいがあったと思っている。自身ライオンズクラブ入会歴30年が経ち、色々な奉仕活動をやってきたが、後世に残せる、又、今後も一層力を入れる活動の一つであるべきとも思う。但し、献眼は強要すべきものでは絶対あってはいけないことも事実である。 高岡市の男性より。 注釈 提供する自由も。提供しない自由もあります。提供を拒否する意思表示もまた重要です。

    私の遺言状   秋のとある日、縁側で孫と一緒に日向ぼっこをしていた。澄んだ晴天の空、日差しが眩しい。「おーい。いるかい!」どこかで聞き覚えのある声。中学時代の同級生であった。来年還暦。同級生皆でお祝いしようと私を仲間に誘ってくれたのだ。名前を聞くと懐かしい顔ぶれ。二つ返事で快諾した。「なかなかお世話は出来ないかもしれないけどよろしくね」と友人を送り出した。膝の上にいる孫の顔をみて自分もそんな年令なのかなあとふと我に返る。自分は3人の子供に恵まれ、2人は独立し家庭を持ち幸せに暮らしている。思えば私も含め色々な方々にお世話になって生きてきた。ライオンズクラブに入会して献眼登録も済ませたが今一度家族の理解を確認しよう。今晩一杯やりながら。少しはお役に立てるかなあ(独り言) 射水市の男性より。

    献眼についてのメッセージ   私達は目が見えて当たり前、目が見えなくなるなんて考えたこともないという人が、ほとんどで私もその一人だ。しかし、世の中には病気あるいは事故などで突然視力を失い角膜の提供を待っている人が大勢いる。けれども、そのようなことも知らず、ましてや「献眼登録」がある事も知らない人もしかりだ。もっとたくさんの人達に知ってもらう為に、イベントなどを積極的に利用して献眼登録の理解や登録希望に繋げていけばいいのではないか。「献体は…でも献眼なら…。」と、いう人が必ずいると思う。私は、ライオンズクラブに入会し、「アイバンク運動」と身近に知り、奉仕と感謝の気持ちとともに、「献眼登録」を前向きに考えるようになった。家族や友人にも「献眼登録」を推進していきたいと思っている。 朝日町の女性より。

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    ウイサーブの極み   昨年2リジョン1ゾーンのゾーンチェアパーソンの役割の一つである、ガバナーの代理として献眼者への感謝状贈呈を行うため、葬儀場に出向きました。感謝状を見せますとご家族の方から「おばあちゃんは最後まで人の役に立って逝ったがいね。偉いね」と涙ぐんでおられました。私が感謝状を贈呈した後、大黒理事長が弔辞を述べら、その中で「おばあちゃんが85歳で献眼登録される時『こんな年寄りの目でも役に立つがけ』と言われましたが、104歳になってこれからお二人の目の中でお役に立って行かれます。」との言葉で喪主が感動され、喪主の挨拶が「ライオンズさんの、ライオンズさんの」と言葉が続かなくて、喪主の挨拶にならないくらい感激されて居られました。「ウイサーブ」の極みであると感じました。この後、5月に福井の年次大会において登録をし、家族にも理解をさせました。 高岡市の男性より。

    尊い勲章   2年前、89歳の実母を引き取ることになりました。献眼に一番貢献できる年齢です。「高齢だから何かあったら献眼に協力してね!」「わかったよ。」未来にすぎませんが、心から感謝いたしました。毎日が思わしくない介護生活の中で、意外な言葉が出ました。「目やの取らんといて。痛いし、いややわ。」返す言葉がありません。「わかったよ。」しばらくは、問題に触れずに介護を続けました。「やっぱり、目を取ってもいいよ。」母からの言葉です。さて、私からの遺言に入ります。ライオンズクラブのバッチを胸に付けた日から、私は自分のできるボランティアを探し始めました。皆が同じ気持ちで協力できたなら、社会から犯罪や争いが無くなるのです。その喜びは、叙勲や名誉には程遠いけど、自分が自分に贈る尊い勲章なのです。 高岡市の女性より。

    人生最後に真の奉仕を   ライオンズ精神の根底には奉仕がある。何となく、漠然と、奉仕をとらえていた私は数年前に、真の奉仕を分かりやすく言い当てている言葉に出会った。
 「お返しを期待しない、感謝の言葉も求めない、それが本当の奉仕です」瀬戸内寂聴さんのこのメッセージは心に響いた。ヘレンケラー女史が「ライオンズよ、闇を切り開く盲人の騎士となれ」と世界のライオンズメンバーに訴え始まった献眼活動にはその神髄がある。生きているうちにそれを成すことは難しい。しかし、人生の最後に献眼を約束することは真の奉仕活動の実現である。愛する妻よ、君の気持ちは嬉しいが私の最後の我儘を叶えてはくれないか。献眼をよろしく頼む。 黒部市の男性より。

    素敵な人生を   先ず、私にこの世に生を授けて下さった神に感謝しよう。次に、五体満足に生んでくれた両親に感謝したいと思う。贅沢を言えば切りがないが、この歳になるまで大きな病気や怪我をすることなく、波瀾万丈ではないが愉しいことを沢山経験させて戴き、良き伴侶を得て自分の命も子や孫に繋ぐこともできた。友と呼べる友人達や良き先輩後輩とも巡り会え、仕事や奉仕活動を通じて気持ち良い仲間とも知り合えた。それをささやかと言うか、素晴らしいと思えるか、自分の心の持ち方一つであろうと考えるが、自分は素晴らしい人生であったと確信している。そんな素晴らしい素敵なことを沢山見つめることが出来たこの自分の目を是非誰かに献上して、同じように素敵な人生を送って戴きたいと思う。さて、残り少なくなった人生、後少しだけ愉しませて貰います。 富山市の男性より。

    世の中への恩返し   ライオンズクラブに入会して21年になります。私も今年、喜寿を迎える年になり、色々な人に助けられ今日まで過ごして参りましたが、未だに世の中に対しお返しをしていない気が致します。献眼登録をしてから20年ほどになります。最近は、臓器提供なども云われていますね。私の体でお役に立つ事であれば充分利用して頂きたいと考えております。幸いにも健康には充分留意しておりますから、現在、薬は一切飲まずに健康を維持しております。何年後になるかわかりませんが、人生最後の奉仕として献眼と臓器提供を約束しておきます。僅かですが、世の中への恩返しになればと思っております。以上、献眼と臓器提供の遺言と致します。 射水市の男性より。

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    献眼についてのメッセージ   献眼に対して、怖さがあった。眼を取られるのは嫌だな。子供たちはどう思うのか。昨年、網膜の病気により手術をした。術前は、ものすごい恐怖があったが、今はよく眼に注射を打つが、恐怖心はかなり薄れてきた。先日、子供たちに自動車運転免許証、保険証の裏の臓器提供の意思表示について、どうしているか聞いてみた。即座に、書き込むのは当たり前だろ!の返事が返ってきた。自分が恥ずかしく思えた。日頃、人の役に立つ仕事をしろと言いながら、いったい何をしているんだろう。いま、このメッセージを書きながら、臓器提供の意思表示を書き込んだ。 富山市の男性より。

    愛 アイバンク   小学5年生の眼の検診の時、県立南部高校(現在の富山高校)前にあった磯野眼科医院の磯野先生(女医さんで多分ご高齢だったと記憶する)に「綺麗な眼をしていますね」と褒められた後、自慢の眼も40歳半ばまで維持していた裸眼視力1.5から70歳を過ぎた先日の運転免許更新時検査で0.7までに衰えてしまった。聞くところによれば100歳を過ぎても健康な眼を持ち、ご逝去の際に献眼をされた方もおられるとか…。私も健康な眼を持ち続け、最後にささやかな愛の奉仕として献眼をすることを家族に伝えている。 富山市の男性より。

    人生最後の奉仕   眼について想う事がある。小学生の頃(60年前)、年に1度の眼の検査が行われた。当時は衛生状態も良くなく、伝染性のトラコーマ(トラホーム)が流行した。同時に視力検査、色覚検査が行われた。視力は下段(2.0)まで読めて大威張りだったが、色覚検査ではどうしても最後の1枚が読めない。翌年も読めない。誰かに教えてもらって検査をしようと思ったが、判定は赤緑色弱だった。両親は正常ですが、完全にな遺伝によるものでした。電力、化学、航空、船舶関係の職業は無理だと解り、子供心に悩んだものです。物が見えない眼の不自由な方々と比べたら贅沢な悩みだったと、今は思います。先日三百字の遺言への原稿の依頼を受けました。もう少し歳を重ねてからと思っていましたが、ライオンズ歴も25年になり、今日になりました。1995年より4年間富山県アイバンクの評議員をさせてもらい献眼登録をしました。亡くなった際に眼を提供し角膜移植が行われるのです。1991年(平成3年)富山県アイバンク設立以降、献眼への関心は年々高まり喜んでいます。人生最後まで眼を大切に心がけ人生最後の奉仕をさせていただきます。 黒部市の男性より。

    光を失った人に、再び光りを   私は五感から入るあらゆる情報を駆使して、どうにか日常の暮らしを全うしていると思う。どれか一つでも失うことがあれば忽ち要支援、要介護の世界に入ってしまうだろう。でもこの有難さは、失ってからでないと実感ができないらしい。小説や詩で語られているのを何度となく目にし読んではみたが…まさか自分や周りの人、とりわけ家族にはそのようなことが起きていないことが、あたりまえと思って私は暮らしてきた。平成21年12月に高岡伏木ライオンズクラブに参加して初めて知る世界ばかりであるが、「光を失った人に、再び光を」を合言葉に献眼活動に出くわし、何かをしなければと思う今日この頃です。でも私も60数年生きてきて、五感より第六感(ヤマカン)で生きてきた方かな。ただただラッキーなだけに過ぎない。堅実に生きたいものだ。 高岡市の男性より。

    「同じ光の中」にいたい   先日、テレビでドラマを見ていました。目の不自由な女性と編集者の男性とがふとした日常で出会い、魅かれながら、別れていくストーリーでした。「こんな出会いがあるわけねえ。」と思いながら、ドラマですから願望満載の大人の恋という設定で面白く見ていました。その中で主人公とヒロインが二人で駅のベンチに座り、主人公が目を閉じて「僕らは同じ闇のなかにいた」と独白する場面があります。ドラマなので同じ闇のなかにいてもいいのですが、家族や親しい人ならば「同じ光の中」にいたいと思うのではないでしょうか。私の死後、献眼を通して、誰かが光を取り戻すことでその周りの多くの人が同じ光のなかで暮らせるよう希望します。 富山市の男性より。

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    見つづけたい   富山に生を受けてからはや、数十年(半世紀以上)をむかえようとしています。幼い時から変わらない雄大な立山や、穏やかな富山湾を見るたびに、心豊かになるのは私だけではなく、富山県人であれば普通のことではないかと思います。最近はよく、立山登山に行ったのはいつだっただろうか?富山湾に船で出たのはいつだっただろうか?自分はいつまでこの幸せとともに暮らせるのだろうか?と考えています。美しい富山といつまでも一緒に暮らしたい。人の命はいつか尽きるものです。わたしが亡くなっても、この目で永遠に見続けて行ってもらいたいのです。 富山市の男性より。

    自然豊かなふるさと。この地に生を受けた喜びをうんと味わって下さい。   学生時代には、ラグビーをエンジョイし、社会人となってからは伴侶と10数年にわたりサウジアラビアで小資源国日本への石油の仕事で海外生活を送り、郷土へ帰ってからは食品スーパーやアパート業を行い、小水力発電にも志を持つ事が出来、満足な人生を送っています。世界を見渡せば、天国と、貧困と病気との戦いで地獄の様な処もある中で、私はたくさんの人様のお陰様で感謝感謝の毎日です。どうかこの角膜で視力を回復なさり、すてきな人生をみつめて幸せな人生を送ってほしいと願っています。 黒部市の男性より。

    こころ残さず 夢残す   2年ほど前より 眼がかすんで来た。病院で診てもらうと「老眼ですね」とあっさり。眼鏡を用意してもらい使う内、また合わなくなり取り替えることにした。その時、献眼登録を済ませている事を思い出し ちょっとはましな眼球で次に渡したいと考えだした。アイバンクでは関係ないとおっしゃるだろうが、私の眼で世の中を見て、この人は大したものを見ていないな、などと思われないよう本を読み、美術館へも通い、見栄を張りだした。笑わないでください。77歳にして真剣なのですから。人間止めた後も、ずっと世の中を一緒に眺めていたい。楽しいでしょうね。 高岡市の男性より。

    見る楽しみを届けられるように   今回ご縁を頂き初めて富山県アイバンクの活動を聞かせて頂きました。お恥ずかしい事にそれまではアイバンクの事もまったく知りませんでした。目の不自由な方々に献眼という形で貢献し、またそうすることで自分自身の一部がさらに生き続ける。自分一人の意思では難しいのかもしれませんが、家族の理解を得てこの活動が広がれば素晴らしいと思いました。また、患者様の多さにもびっくりしました。最後に、富山県アイバンクの活動がもっと広がって善意ある行動で一人でも多くの患者様に「見る」楽しみを届けられるようご祈念いたします。 砺波市の男性より。

    最後にできること   毎日の生活で目が見えるということは当たり前なことであり、素晴らしいことです。ところが、世の中には目が不自由なために、モノの美しさや楽しさを味わうことができない、光さえ見えない人がたくさんいます。
 角膜の移植手術によって、これらの人達に喜びや希望を与えることができます。お父さんが死んだ時、そんな困っている人たちに光をプレゼントしたいので、どうかそのプレゼントを君たちの手で届けに行ってください。お父さんからの最後のお願いです。 魚津市の男性より。

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